63.多くの国でカトリックの信仰は現在、新しい宗教的ムーブメントの急増という挑戦に直面しています。原理主義に走る傾向のものもあれば、神を除外した霊性を提案しているかのようなものもあります。これは、一方で、物質主義社会、消費社会、個人主義社会を前にした人間的反応の結果ですが、他方、大変な人としての痛みのさなかで生き延び、その欠乏に対して手っ取り早い解決を求める郊外や貧しい地域に生きている人々に見られる不足を利用しているとも言えます。こうした宗教的ムーブメントは、そのずる賢い潜入によって特徴づけられていて、猛威を振るう個人主義の中で世俗的理性主義によってあけられた穴を埋めに来るものです。しかも、これはわたしたちが認めておかなければならないことですが、もしわたしたちの洗礼による民の側でその教会への帰属意識を体験できなければ、わたしたちの小教区や共同体の中には、もう少し人を歓迎するような仕組みと雰囲気の存在も求められているのです。あるいはわたしたちの民の生活での単純な問題にせよ複雑な問題にせよ、これに対して答えを出すにあたり、官僚的な態度にかわって歓迎の仕組みと雰囲気が求められるのです。秘跡以外の福音宣教の仕方を認めない秘跡主義といったように、司牧的なことについての運営に関して支配的な態度が見られるところが多いのです。
2013年11月26日(火)、ローマ時間の昼前に 教皇フランシスコによる最初の使徒的勧告が出ました。 『Evangelii Gaudium(福音の喜び)』です。 ちなみに、オリジナルはパパ自らがスペイン語で書いたそうです。 中央協議会の訳が出るまで、しばしの間、 時間の許す限りぼちぼちゆるーくアップして行く予定です。 拙訳ですがお楽しみください。
2014年3月8日土曜日
62 第二章、共同体的献身の危機にあって>I. 現実の世界のいくつかの挑戦>いくつかの文化的挑戦
62.支配的な文化では、第一の関心事は外面的なもの、すぐできるもの、見えるもの、速いもの、表面的なもの、一時的なものが占めています。ほんとうのものが、見せかけに座を譲っています。多くの国では、グローバリゼーションは経済的には発展しているけれど倫理的には弱まった他の諸文化に属する傾向の乱入に伴う文化的根本の猛スピードの悪化を意味してきました。そのように諸大陸で行われたさまざまな司教シノドスでこのことが表明されてきました。アフリカの司教団はたとえば、回勅『真の開発とは―人間不在の開発から人間尊重の発展へ』を改めて引き合いに出しながら、数年前に、しばしばアフリカの国々が単なる「一つのメカニズムのパーツ、巨大な歯車のパーツ」になるようにと求められていることを指摘しました。「これはしばしばソーシャル・コミュニケーションのメディアの分野で生じます。そこでは、これがほとんどの割合で世界の北側に牛耳られているため、こうした国々独特の優先生と問題に関するふさわしい考察がいつもあるわけではなく、その文化的様相をも尊重しないのです」[57]。同様に、アジアの司教団も「外面からアジア諸文化の上に遂行される影響を強調しました。振舞いの新しい形式が現れてきています。それらはソーシャル・コミュニケーションのメディアへの極度の露呈の結果です。[…]。それには結果としてコミュニケーションとエンターテイメントのメディア産業の否定的側面が伝統的価値観を危機にさらしているということになっています」[58]。
2014年2月14日金曜日
61 第二章、共同体的献身の危機にあって>I. 現実の世界のいくつかの挑戦>いくつかの文化的挑戦
61.わたしたちは、示されうる様々な挑戦に立ち向かおうとするときにも福音宣教をします[56]。しばしばこれらは宗教の自由に対する真の攻撃やキリスト者に対する迫害の新たな状況において示され、ある国ではこれは、憎しみと暴力のただならぬレベルにまで至っています。多くの場所ではむしろ、全体主義に見えそうなあらゆるものに対する反応として促されたイデオロギーへの幻滅と危機に関連する、広まっている相対主義的無関心として扱われています。これは教会だけではなく、社会生活全般に害を及ぼします。一人ひとりが自分勝手な真理の運び手となりたがるような文化では、その市民が個人の利益や望みを越えた共通のプロジェクトを統合しようと望むのが難しくなるのです。
60 第二章、共同体的献身の危機にあって>I. 現実の世界のいくつかの挑戦>不平等は暴力を生み出す
60. 現実の経済の仕組みは消費の激化を促進させますが、不安感と一体化して留まることを知らぬ消費主義は社会の網で二重に害を及ぼすものとなっています。そのように不均等は、遅かれ早かれ武装主義の競争が解決せずこれからも決して解決することのない一種の暴力を生み出します。それは、まるで今日武器や暴力的抑圧が、解決策を講じるよりも新たなそしてさらにひどい対立を作り出すことをわたしたちが知らないかのように、ただより確かな安全性を訴える人々を誤魔化そうとするためだけに役立つのです。ふさわしくない一般化を伴って自分自身の悪によって生まれた貧しい人々や貧しい国々に罪をなすりつけ、彼らを静かにさせ、彼らを飼いならされ犯行をしない生き物へと変えるいわゆる《教育》に解決を見出そうとして、単にこれを楽しんでいる人もいるのです。もし疎外されている人々が多くの国々で、その政府の中や会社、組織、どのようなものであれ政府の政治理論の中に深く根ざしている汚職という、その社会のガンが大きくなるのを見るならば、これはさらによりイライラさせるものとなるのです。
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